鍼灸師が教えるツボより大切なこと(最終話)

鍼する左手 灸する右手

 

中堅鍼灸師のマツハリ先生と健康マニア宇宙人のキュウタロウ君のドタバタ鍼灸問答です

今回は最終回。マツハリ先生はキュウタロウくんとお別れなのです。

#25 鍼灸師が教えるツボより大切なこと

 

キュウタロウ君へ

お勉強は進んでいますか?私もお仕事が忙しくてなかなかお相手できないことを残念に思っているよ。今日はいままでの復習としてお手紙に書きました。もし、内容が難しかったら太字のところだけ覚えておいてね。いままでお勉強したことを繰り返し見返すことも大切だよ。質問はいつでもOKだからね。また時間があったら遊ぼうね。

マツハリ

 

ツボを押せば何かが治るって思う気持ちもわかるんだけど、いくつかの誤解があるから整理していこう。ツボと反射区はまったく別物だって説明したよね。これはいいね。ツボという言葉が有名になっているから、何かの説明をするときは有名な言葉の方に引っ張られるわけさ。歴史的な経緯がわからないとごちゃごちゃしちゃうからね。一般的に言うツボのことを東洋医学の専門用語である経穴(けいけつ)だというつもりで説明するね。経穴っていうのは病変によって変化が現れる皮膚のあるポイントのことを言うんだ。米粒ほどの大きさの場合もあれば、10円玉ほどの大きさの場合もある。当然、その境界がはっきりしていないものもある。そして、変化というのもザラつきやくぼみ、熱感、冷感、また知覚過敏や知覚鈍麻といって触られた感じが鋭いものや、にぶいものまである。押されて気持ちいいかと言われれば、そういうときもあるし、痛いときもあるし、感じがにぶい時もある。

ツボっていうのは正常じゃないっていう変化が皮膚表面に表れますよってこと。

 

ちなみに、異常が皮膚に表れるというのも正しい言い方ではなくて、異常、つまり不具合はいろいろなところにでているわけ。それを皮膚面でわかるっていうのが経穴の異常所見ってことなんだ。例えば内臓の不調が一部の経穴の変化として表れることはある。それだけではなくて、歯茎が腫れやすくなったり、アゴが痛くなったり、足がつったり、転びやすくなるわけ。いろいろな不具合があるなかで、体表に注目したのが経穴ってことなんだよ。いろいろな変化が出てくるのだけど皮膚の変化に注目したに過ぎないんだ。皮膚の変化っていうのは、正常じゃないですよってことなのはわかるよね。状態には正常と異常がある。正常というのは、普段は無意識であってよくわからない。異常っていうのは初期なものほど顕著に出る。そして慢性的に異常だと人体はそちらの方を正常と勘違するようになるのさ。徐々に何が正常で何が異常かっていう差がなくなってしまう。そのような状態をほうっておくと、人間本来の回復力が落ちてしまうんだよ。

異常は異常だと気がつく必要があるんだ。

 

ツボは異常があるから出てくるっていうのはわかったよね。でもね、ここで考えてほしいのは、それを押せば治る、もっというと押せば無くなるっていう誤解があるんだ。本当の東洋医学は中庸(ちょうどいい)っていうのを大切にしている。そのために処置することが治療の目的なんだ。ただ単にツボを押すということは、調整を目的にしていないんだよ。鍼灸でも漢方でも補瀉という概念があるわけ。補法と瀉法といって、補は足りない気や栄養を補うわけ。瀉は余計な気(邪気)や栄養を取り除くわけ。このように足したり引いたりしてちょうどいい状態を目指すのが本来の治療なんだ。ツボを押したから効いたとか、効かないとか言ってほしくはない。ましてや押せば痛いからツボだとか、痛いから効くってことじゃないんだ。

補瀉調整があってこそ経穴の意味がある。

 

それでも本屋さんに行けば数多くのツボ押せ本があるよね。これは、西洋医学的な発想でまとめたれた本と言えるんだよ。西洋医学的というのは、状況がどうであれ、似たような病名であれば似たような現象が起きるので、似たような処置でいいですねってことさ。例えば頭痛っていうのは、誰でも頭が痛いんだから鎮痛剤を飲んで寝ていましょうってこと。一見、正しいようにみえるけど、症状の原因はいろいろあるものなんだ。東洋医学的に言うと「のぼせ」からくる頭痛もあれば「貧血」からくる頭痛もある。「心労」「寝不足」「発熱」が原因かもしれない。だから、頭痛という一症状名だけでは、あまりヒントにならないんだよ。本来、総合的に判断する東洋医学的な見かたを症状別の見出しに再考した時点で無理が起きるんだ。

症状別だけの分類にするから無理が生じる。

 

それでも、症状別に分類したのは画期的だったに違いない。古典の中にも症状について処方が書かれているものも確かにある。このような話は時代や流派をごちゃ混ぜにして説明するから出てくる誤解なんだ。証というものの分類、邪によるものの分類、臓腑によるものの分類、病症によるものの分類。これらのどれを中心に話しを展開するかによって考え方の差みたいのが自然に出てきてしまうんだ。証は崩れたバランスを中心にどのような状態になり、どのようにすれば治るかを考える見かた。邪による分類は病因論という言い方もできると思うけれど、どのような状態が病状を引き起こしたのかがわかる見かた。臓腑によるものは生理学といっていいかな、本来ならこうなるので、その状態からどれほどかけ離れているかがわかる見かた。そして最後に症状から考える見かた。ここが誤解のもとだけど、症状から考えるのは、「症状から」考えるので、病因や生理がわかっていなければならないんだ。これを結論だと思ってここだけ取り上げるから誤解が生じているんだよ。

いろいろな見かたができるから的確に診断や処置ができる。

 

そのような見かたが偏っていたらどうだろう。当然、うまくいくこともあるけれど、うまくいかないこともでてきてしまうんだよ。西洋医学的な考え方に慣れているから、似たような点をまとめたのが本屋さんにあるようなツボ押せ本というわけさ。補瀉の考えもなければ、原因ではなく表面上の症状だけしか対象にしない。これでは本来の東洋医学というには、あまりにもお粗末なものなんだよ。一般の人が東洋医学が神秘的な関心を持っているからって、無知な人をバカにしていると思わないかい?だから、このような話しが広まったり、逆にツボを押したけど効かなかったと言われるのは悲しいことなんだよ。だって、それって本当の東洋医学ではないんだからね。

誤解されている東洋医学が広まっている現状なんだ。

 

そもそも鍼灸師もそのような授業しかしていない。授業が悪いというよりは、哲学的な勉強や現状分析、もっというと歴史的な認識の違いなどを学ぶ機会がない。なぜかって?学校は国家資格を取得するために存在しているからだよ。だいたい大切にしていることはふたつ。ひとつは国家資格合格率。そしてもうひとつは就職率だね。学校だって経営が必要だから気持ちがわからないでもないけど、バランスを欠いているね。志の部分が完全に追いついていないもの。それに鍼灸の資格もテストにするのが難しいんだよ。内容によっては西洋医学が中心になるからね。それもそのはず、医療は厚生労働省管轄だからね。事故を起こされては困る。だから医療行為は禁止している。それを鍼灸の分野に限って部分的に解除しますよっていうのがはり師や灸師の資格だからさ。つまり、危ないことはしないでね、消毒の必要性とか鍼による事故防止とかをしっかりやりないさいね、というための問題しか出てこない。どうすれば健康でいられるかなんてテストにでるわけがないんだ。これは学校批判や国家資格批判ではないんだよ。これが現実だってことさ。つまり、学校は最低限のラインでしかない。本当の鍼灸については歴史的な経緯や哲学的な差異、医療に関わる者としての心構えから、伝統的な技術習得まで幅広く学ぶ機会を持たなければならないんだよ。

鍼灸師は資格を持っているから治せますってことじゃないんだ。

 

私は多様性を否定するつもりはないんだよ。むしろ歓迎している。仏教だってラーメンだって歴史と地域に根ざしたものがあるでしょ?それを示してどちらが「正しいか」ということにはならないよね。でもね、自説を愛しすぎると時として他を否定しているように映るものなんだ。実際には、鍼灸にどのような流派があってもいいと思っているんだよ。ただね、それも自覚があってのことだと思うんだ。無自覚で適当にやったものがすべてだと言い切ってほしくないんだよ。そしてね、その効果だけをみて、効くとか効かないとか断言してほしくないんだ。これはわかってもらえるよね。でもね、難しいことに学校を出て資格を取ってしまえば鍼灸師ってことになるわけさ。強い信念と知識、技術を持ちあわせていようがいまいが関係ないことなんだよ。勉強の入り方を間違えると思いつきで思いもよらないことになってしまう。例えば、日本にも伝統に根ざした鍼灸の技術がある。700年台の仏教伝来と同じ頃に鍼灸の技術や知識も入ってきたんだからね。1300年も前の話しだよ。それを知らずに鍼に電気を流しますっていうのは普通の感覚で疑問に持たないのかな?中国の鍼のやり方を中医学っていうんだけどね、八綱弁証といって綿密に病体をタイプ分けするんだけどね、それが治療に直結しているかっていうとどうなんだろう?とか疑問に思わないのかね。これは鍼灸に向き合っていれば批判ということではなく普通に思っていい疑問だと思うんだ。また電気を流す鍼をしている人や中医学の人もこのような意見に説明や反論をしてくれると親切だと思うんだよね。当然、臨床家は忙しく難しいのはわかっているけど。

勉強の入り方を間違えるととんでもないことになる。

 

私の中医学の認識が深いわけではない。むしろ浅いくて誤解が多いと思っていただきたい。そしてそのような素人同然の者に真摯に向きあってくれる人がいたら幸せに思うんだ。他の流派の人みんなに同じように思う。無自覚で適当にやっている人は許しがたいけどね。中医学は思想的に西洋医学的な舵取りを取っているんだよね。中西合作といったスローガンで中国の医学と西洋の医学を相補的に取り組みましょうという動きがある。それでも現実は中国における無医村の解消のために気功師や鍼灸師を派遣している状態のようなんだ。西洋の医師は育成するのにお金がかかるからね。そういうお国事情を知らずに本場中国の鍼灸がすごいっていうのは正しい認識なのかは疑問が残るよ。当然、研究は進んでいる国であることは間違いない。それでも、技術というのはある意味では職人さんの世界だから、薬の開発のように膨大な知識の集積だけでは発展に限界があるのではないかなと思うわけさ。中国政府は国をあげて中医学の普及に力を入れている。日本語で中医学を教育するサイトが国家事業としてあるんだ。アメリカは民間保険に鍼灸が採用されたりNIH(アメリカ国立衛生研究所)では鍼灸の難病や薬物患者への応用など研究が行われていると言うんだ。その意味では国家レベルの意思だったら中国やアメリカの方が医療行政に積極的に鍼灸が採用されているんじゃないかな。韓国や台湾、日本なんかは民間レベルの質によって支えられていると認識するのが適当だと思う。これから大きな差となって表れてしまうかもしれない。日本の伝統鍼灸も頑張れって思うけど、求心力が高まることは少ないかな。もっと大きな復古主義的な動きが増えないとね。例えば国民皆保険制度が崩壊して医療ってお金がかかるんだねって多くの国民が理解してはじめて予防医学である鍼灸の価値が再評価されるのではないかな。今後、医療行政に本当の変化が訪れるとすれば哲学的な差異を認めて、融合させることではなく、最適な選択ができる環境整備だと思うんだけどね。

西洋医学でも東洋医学でも最適な選択ができる環境整備を。

 

東洋医学っていうのは、理論の体系化が進めば理論の飛躍っていう状況をうみ、実践の重視が進めば理論をないがしろにするという危険をはらんでいるんだ。過去の失敗はすべてこれで説明がつくよ。その意味では大きな流れの変遷を知るために易経は知らなければならないと古人が言ったのは間違いではないね。医療の神格化、陰陽五行の絶対視、安易な処方、簡素な処置に傾倒、個人的な経験を普遍化、根拠・哲学なき処置、いずれも絶対視したり極端になることから修正できない末路といった様相。ひとりでは大きく反省することはできても組織や流派ともなると本質が伝わらないのも無理がないことなのかもしれない。中庸を欠くことがいかに危険か。中庸と無分別というのはまったく別次元だということを気が付かない人も多いけど実は大切なことなんだよね。このような大局に立った見かたができないと本来は医療という人の一生に関わる仕事を業とするのは難しいハズなんだ。つまり、「治る・治らない」という小さい次元で考えているようではダメだということなんだよ。当然、病苦に苛まれている人には治る治らないは死活問題かもしれない。だからといって、鍼灸師が治せればなんでもいいという態度ではいけないということなんだ。なんのための歴史か。なんのための伝統か。そこには先哲偉人の大きな意思があるものなんだよ。そして貴重な財産である医学を末裔まで伝える義務があると認識しなければならないんだ。病苦を治す心も医学を伝える心も結局は同じ意思によるものだから。

伝統ある医学を正しく未来に伝えるのも鍼灸師の努めなんだ。

 

鍼灸の未来、東洋医学の未来は明るいかって?必ずしもそうは言えないね。それは資格制度とか経済環境を指して言っているんじゃないんだよ。誤った科学化の俎上にあがりやすいものだから心配しているんだ。これほど価値が高いものだと研究してみようという風潮が高まるのも不思議ではないでしょ。それでも、一から、そうだな歴史的な経緯や各国の背景など詳細に研究してくれたら嬉しいんだけど現実は違うんだよ。ネズミに鍼を刺して効いたとか効かないとか、二重盲検法をやってないから無効だとか、心理的な効果であって鍼の効果ではないとか、刺激だったら鍼じゃなくてもいいんじゃないかという思いつきに近い結末を迎えやすいんだ。これで非科学という烙印を押すには早すぎると思うんだよ。だってそうだろ、科学の前提となる対照実験なんてできるわけがない。同じような双子だからって同じように症状が表れると思う?同じ症状でも同じように治る?同じ処置ができる?このように医学というのは、科学の延長で考えるうち難しいかもね。鍼灸の証明は現在の科学ではそぐわないんじゃないかなって思う。未来はどうかわからないけどね。きっと未来だともっとしっかり証明できるかもしれない。だから、鍼灸は非科学ではなくて未科学、つまり未だに科学で証明できるに至っていないって考えるのが自然なんじゃないかな。

鍼灸は非科学ではなくて未科学。

 

私は鍼灸師だけど、病気を治すってのがすべてだとは思っていないんだよ。東洋医学には未病治っていう大切にしたい言葉があるんだ。未病治っていうのは、病気になるまえに整えてしまおうってことなんだ。西洋医学的な処置では、どれほど早く対処しても早期発見がいいところ。早期に発見ということは、症状や病変が出てからの対処ってことなんだよ。だから、東洋医学こそ予防にうってつけの医学ということが言えるんだ。この未病治という概念がもっと多くの人に受け入れられれば医療費の高騰とか社会的な不安もかなり減ると思うんだけどね。対症療法といって、そこにある症状の数だけを相手に治療していったら際限なく処置が必要になっちゃうんだけどね。これをどうにかしようというのではなくて、しょうがないっていう風潮があるうちは医学医療の世界はあまり変わらないだろうね。そして医療行政も国民の生活も大差ないだろうね。ただ、少しづつでも精神的な成熟と同じように提供する側の鍼灸師や享受する側の一般人の考え方が向上すれば明らかに差が出てくることは間違いないんだよ。そのような考えに立てればよりよい未来が待っている。一事は万事だからね、すべては共通するんだ。

未病治の価値がわかれば人生も向上しちゃう。

 

鍼灸師って鍼を刺すのが仕事って思う人が多いと思うけど無理もないよね。だって鍼灸師なんだもん。でもね、よく考えて欲しいんだ。パン屋さんがパンを作るのが仕事って思っているなら間違いなんだよ。パンを提供することによって喜んでほしいわけでしょ。パンを作るのが仕事なら、ずっとパンを作り続けていればいい。それってロボットにもできることになっちゃう。その意味ではただ単に作ればいいっていうのは違うよね。だから、パン屋さんの仕事はおいしいパンを食べて喜んでもらいたいってことだと私は思うんだよね。同じように考えるとサラリーマンって仕事をするんじゃなくて、仕事を通じて相手や社会に喜んでもらいたいわけだよね。反論されても困るんだけど、これらは視点の話しなんだよ。話しを戻すと、鍼灸師は刺せば治るっていう秘密のツボを知っているわけじゃない。特効穴という不思議と効果があるツボもあるにはあるけど、そのようなものに頼っている人はかえって鍼灸師に向かないと思うんだ。もっと理論や学理がしっかりあるものだからね。そもそも「鍼は効く人もいるし、効かない人もいるよ」なんて鍼灸師が言ったら、その人のレベルはそこまでだってことさ。一般の人が言ったら鍼灸にもいろいろな流派があるってことを知らない人の発言か、鍼灸を受けたことのない人の話しだろうね。鍼灸師が使命を持って相手に望まなかったら何をやってもうまくいかないハズなんだよ。医は仁術というけど、仁の心だけではなく礼、信、義、智などを常に持つべき意思としている点から考えても、決して単調な作業などありえないってことを肝に銘じておかなければならないんだよ。

鍼灸師は鍼を刺すのが仕事じゃない。

 

鍼灸師にとって何よりも大切なのが「考え方」なんだよ。例えば、陰陽、三才、五行などという基本的なものから易経、はたまた素問や霊枢という古典に代表される原理原則が網羅されているものまであるよね。これら考え方を正しく運用できれば、極端な話しでいうと鍼を刺さなくてもいいってことなんだ。鍼を刺すのが目的ではなくて、気血の運行を調整するのが目的なんだからね。当然、職人さんだから技術が大切なのはわかるんだけど、政治家や宗教家のような大局観が必要になるお仕事、または立場だってことが言えるのさ。だから、小手先の技術を覚えるよりも根幹となる考え方をしっかり身につけたほうが、よっぽど鍼灸師として大成するわけなんだよ。それと同時に職人さんだから実践してナンボだよね。多くの人を救うには、目の前の困っている人を助けることから始まるわけ。難病奇病を治したからって何の自慢にもならないんだよ。難病奇病や外国人、有名人を担当したからって公に言う方がモラルが問われるくらいなんだけどね、実際は。鍼灸師は鍼灸師という枠にとらわれがちだけど、通称だったり法律上だったり、資格上の呼称にすぎないんだ。だから、もっと東洋医学、東洋哲学の専門家と胸を張っていられるようにいたいものだね。この人に聞いたら、何か答えを指し示してくれるんじゃないか、そういう期待に応えたいものだね。

鍼灸師にとって何よりも大切なのが考え方。視野や洞察、視点など幅広く。

 

言葉で何かを伝えようっていうのは、本当に難しいと思うんだ。特にみんなが興味を持つ医学の分野だし、鍼灸は長い歴史もあるしね。しかも、鍼という珍しい道具を使うものだから、そっちへ気持ちが引っ張られちゃう。摩訶不思議なツボに摩訶不思議な鍼を刺せば、摩訶不思議に治っちゃうと思いがちなんだ。そう思うのも無理ないと思うけどね。でもね、難しいかもしれないけど、せっかく興味を持ってくれたんだからさ何かヒントになることが多いはずなんだよ。健康でいたいと思う気持ちは、よりよく生活したいと願う気持ちと同じだからね。歴史や伝統、地域や地元、祖先や先輩を大切にする気持ちにも気がつくと思うんだよ。道徳心が身につかなければ医学は理解できないからね。結局、自分の体を大切にすることも、相手の体を気遣うことも、先祖の努力に経緯を払うことも全部いっしょだからさ。いま、歩いている道だって偶然にあるものじゃないんだよ。誰かが歩いて歩いて歩いて道になってきたわけさ。私がいいたいのは、宗教であれ道徳であれ、医学であれすべてはいっしょなんだよってことさ。大切にしたいと思う気持ちが共通しているってこと。だから、適当にやってみるのもダメ、頑張るのもダメ。大切にしたいと思うことだね。何をかって?あなたが思うことすべて大切にすることさ。そういう丁寧さが品性を向上させるんじゃないのかな。当然、私もまだまだ勉強途中だけどね。自分の仕事や家族、体調や未来なんかすべて大切にしていこうよ。楽しくてワクワクして笑顔でいられること。「大切にしたい」って思う気持ちが大切なんだと思うんだ。どうかな、こんな話しでも何かの役に立てると嬉しいんだけど。

原動力は大切にしたいと思う気持ち。

 

 

最終話を終えて

 

キュウタロウくんとマツハリ先生のやり取りはここにて第一幕が閉幕となります。一般の方にわかりやすく一鍼灸師が考えてること・思っていること・学んだことを伝えようと書き始めました。なかには難しくて消化不良な点があったかもしれません。そして、これを読んだ鍼灸師の方にも意見が言いたくて不平不満を感じている方もいるのではないかと察します。

それは私の表現の限界ですので、申し訳ないとしか言えません。ただ、賛否あることですから同じように表現して誰からの目にも触れるように思考の俎上に載せていただくことが大切だと思っています。もっとも恐れることは無知・無理解によって曲解されたり、無視されることだと思っています。

どうにか鍼灸・東洋医学そして東洋思想というものの現代的活用によって、救われるべき人が救われることを望んでやみません。

私は幼少期に病弱でした。医者に見放されて東洋医学に救われた身だと自覚しています。そのような思いを偶然、運がよかった、たまたまで終わらせないように。医者がダメでも鍼灸があるじゃん、という選択肢となるように鍼灸師側にも一般の方にも本当の意味で鍼灸・東洋医学・東洋思想が根付くようにこれからも考えて進んでいこうと思います。お読みいただいてありがとうございました。

鍼灸師 松本コウイチ

 

『鍼する左手 灸する右手』

 

 

 

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マツモト コウイチ

開業22年超の鍼灸師です。