よく一般的な会話で「性善説」を信じるのか「性悪説」を信じるのか、という話題が登場することがありますが、出典の本来的な意味は、これらのような単なる対義語ではありません。注意が必要です。
たとえば孟子が説いた性善説は「人間の性(うまれつきの性質)は善である」という考え方を持ちました。しかしながら、これだけで理解するのは早計です。今回は簡単に性善説と性悪説の誤解をお話ししたいと思います。
性善説と性悪説
孟子の考え
孟子の生きた時代は戦乱に明け暮れており、死というものがとても身近にありました。
その不遇の時代に希望を見出すために「人間の本質は善なのだ」という視点に立ったのです。人間が殺し合うのは本性ではないという立場からの発言であって、人間の実態が善であるという主張ではないのです。
ですから、孟子が言っていることを理解する前に、「人間がうまれつき善のわけないだろ、孟子なに言ってんの」と言葉だけで孟子を批判することは正しくないのです。
孟子は「人間の本性が善である」という点に希望を見出す立場をとったと考えるほうがよく、なんらかの分析の結果、人間の本性が善でした…というわけではないのです。
大切なものは他にもある
また教育が大切だと説く風潮が現代にもありますが、孟子も早くから教育が大切だと結論づけていたようです。それどころか他から教えられるよりも自分で自覚し、自得することが大切だと説いたのも孟子の注目するところです。
多くの人々が本来の自己にかえり善の本性を発揮すれば、世の中は平和になり、そして悲惨な社会から開放されるというのです。
逆にいうと、本性は善であるけれど、本性が発揮できないのは教育が足りないからだとも。「宝石だって磨かなければ輝かない」というような考えだったのでしょう。
荀子の考え
性悪説といえば荀子が主張した「人間の本質は悪である」というと教科書的には正解ですが、荀子にも誤った解釈が通用しているようです。結論から言うと荀子は人間の本性が悪であるとは言っていません。人の性は善悪ではない素朴なものであるという考えです。
しかしながら、その純朴さもほうっておくと社会不安の原因となる悪へ近づくものです。ですから、荀子は教育の力によって悪への道を断つことを説いています。
悪の魅力
人間は希少価値にあこがれます。当たり前、平凡よりも奇跡的、発展的なものに惹かれます。この希少価値こそ力を発揮するので、東洋思想では多数決ではなく少数決だと考え、少ないほうが影響力を発揮すると考えます。
善とは川の流れで考えるとわかりやすいと思います。「川の流れ」は人が行う道としましょう。善とはその川の流れに従っている状態です。川の流れと同じ方向に動いていきますので自然であり、目立つことはありません。
逆に悪とは川の流れに逆らっている状態です。流れに逆らっているので当然、波風が立ちます。目立ちます。その目立つことから希少性に映り、間違っていたとしてもその注目が魅力的に映るわけです。
同じことを訴えていた
その意味では孟子も荀子も教育の重要性、さらには自得(自分で自覚して学ぶ姿勢)を大切にしていました。
性善説、性悪説というと、なんらかの分析された主義主張と思いがちですが、それは現代人がまとめて文字にしただけのことで、要約がうまくいかず誤解が生まれるもととなってしまったようです。
韓非子の考え
韓非子こそ、いまでいう性悪説の旗手のような考えを持つ人物でした。教育をいくらしたところで本来の悪というものは矯正はできないと考えたのです。ですから、法体系を整備し強化することで、悪を抑えようと考えたのです。
人のことを冷静に(ある意味では冷酷に、ある意味では客観的に)理解して、それでも世の中を良くするために必要な方策を考え、行きついた先が法による支配なのです。
現実的に何が有効だったか
秦の始皇帝が中国を統一した一大要因は法支配による統治だと言われています。
(逆に法治主義が行き過ぎて世の中が荒廃し徳治主義を求める時代もありました。)
また、性悪説という文字通りの考えを主張するのは、人間としてはリスクがあります。「人間の本性が悪」「人間は信じられない」と主張することは仮にそれが正しくとも社会的に排除される憂き目に合うのです。
ですから、私たちは「人間を信じる(性善説)」と思いながらも「玄関の鍵をかけて出かける(性悪説)」という行動をとるわけですし、教育を重視しながらも法体系に従うわけです。さらに法の有無に関係なく、モラル・マナーや常識というさまざまな価値観を持ち二重、三重に自制することによって社会を成り立たせようとしているのです。
さいごに
私たちは情報を早く理解しようとして背景を考えず、内容を簡略化・画一的にしようとしてしまいます。そして、それら省略された情報をもとに、その優劣や正誤を判断しようとしてしまいます。
それぞれの訴えの行間を読むような態度が必要になるのですから、折に触れて古典の再読をしたり原典にあたったり、考えながら読み取る訓練(態度)も必要になるでしょう。
ぜひ、ここで言ったことが本当に正しいのか、それぞれの古典や研究書に触れていただければと思います。
※ この内容は 中国哲学者 吉田公平先生のご講演を参考にしています
マツモト コウイチ
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